私の人生の分岐点は、2011年3月11日。
私は岩手県陸前高田市の平屋の借家に住んでいた。
県立高田高校のすぐそば…
現在は何もない…。
2度目の離婚して、離婚当時まだ小学校1年生だった 私にとっては4人目の子である愛娘と引き離されて、その後出逢った彼(現在 元カレ)の故郷である陸前高田市に移り住んで3年目の事だった。
当時の職場は海の(高田松原…現在は奇跡の一本松に…)すぐ近く。
職場はもちろん、家や車や想い出が
「がれき」
という3文字になってしまった。
あの震災から3ヶ月後に 嫁いだ娘と孫ちゃんがいる三重県に移り住んだ。
あの震災の津波の猛威は、今でも時々夢を見るほどの衝撃で、自然の猛威は人間には計り知れないもの…ってことを思い知らされた。
私は、あの震災を経験した者として、また 4人の子ども達を残して亡くなった友人と、未だ行方不明の友人のご主人のため…ってだけではありませんが、風化させないため日本だけではなく、海外にも日本に何があったのか…を話せないものか?と考えていた。
そんな時に、ネットで
「バリ島 日本語教師プログラム」
というのを見つけた。
バリ島が大好きで、独学でインドネシア語を勉強したり、バリに行くと1ヶ月滞在してるくらい大好きな場所(^^)
そんな大好きなバリ島で、日本語を教えながら あの震災のことを伝えることができたら!
と思い、年齢制限などの問い合わせをしてみた。
幸い年齢制限はないという答えに、私はすぐに申し込みをした。
期間は1ヶ月。民家にホームステイ。
2週目後半から実習。という過密なスケジュールで、多少の不安はあったけど、少ない脳みそをフル稼働して若い人に混じり、48歳だった私もチャレンジ精神のみで頑張ってみました!
いつか、現在は13歳の愛娘と再会した時に胸を張って逢える私でありたい…。
私の実習先は小学校でした。
金髪のデカい日本人オバさん実習生の私に興味津々の子ども達。
バリ島の日本語教師は、まるで日本の英語教師のように、イヤ…そんな言葉 使わないし…ってか、いつの時代の言葉⁉︎って感じで…ツッコミどころ満載の日本語…(^^;;
「こんばん『み』ってさ…ビビる大木さんか⁉︎」
みたいな(^^;;
(実際、バリ島で こんばんみ!って使われてます(ーー;))
そんなこんなで私の実習…
「オール日本語でお願いします」
って言われていたけど、いざ教えるとなると、日本語…難しい!
で、余談でアニメの話をしてみた。
子ども達の食いつきがスゴイ!
「ナルト」「デジモン」「ウルトラマン ティガ」「ONE PIECE」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」など、みんなが知っている。
そんな私の実習を見ていた女性校長が、
「Guru MAYUMI あなたはここでguru Bahasa Jepan (日本語教師)になるべきよ!」って、鶴の一声で決まってしまったのであります(^^;;
現在は、週3日 4年生から6年生の日本語の授業を担当しています。
6年生には、あの震災の話もしています。
インドネシアも日本と同じ 島国で、「スマトラ沖地震」という大地震と津波があったので、小学生でも ちゃんと理解しています。
インドネシアも日本も
「同じ傷があるんだよ」と。
時々ボランティアで孤児院へ行って日本語を教えながら あの震災の話もしています。
「スマトラ沖地震」も「東日本大震災」も風化させてはいけない。
そして、バリ島 レギャンのナイトクラブ自爆テロも…。